treasure hunting

 

October30, Saturday (sunny)




北谷(チャタン)という街周辺は、基地の近くということで、米軍関係者やそのファミリーたちが、海でのんびりと泳いでいたり、ショッピングや散歩、夜になるとバーで飲んでいたりして、沖縄がアメリカだった頃を感じさせる場所だ。
週末になると、日本人と外国人が入り混じったフリーマーケットが開かれ、とても楽しい。   売っているものは幅広く、狭い敷地にぎっしりと、古着、アクセサリー、ブラジルパイ、古本・CD・DVD、おもちゃ、生活用品、骨董品にペット用犬までが売られていた。
古着というと、どうしても人が着ていたものに袖を通すことが出来ないという人も少なくないと思うけど、私の場合は友人の家にお泊りしたときに貸してもらう服を着たときのような、なんとも表現が難しいのだけど、フワーっとした安堵感を古着には感じて、今回も200円の上着を2枚購入して帰った。

実はフリーマーケットって購入するより、出展側の方が断然面白いと思う。  一度だけ友人と弟と、東京の公園で出展したことがあるのだけど、自分にとって思い入れがあっても“不要”と見切ったものを、“必要”と感じて喜んで買って行ってくれる人との、その時限りの繋がりがとてもドキドキするのだ。  
どんな人がどういうものに興味を持つのか?という観点で人間ウォッチングするのにも絶好の場所だったりするし、値切り屋との駆引きもワクワクする。  

考えてみると、急に“お店屋さん”になれて、全くの他人だった人達とコミュニケーションと駆引きが生まれるのがフリーマーケット。  機会があったら、是非ともまたフリーマーケットで店を開きたいと願う。

October28, Thursday (sunny)

   
            @ひめゆり平和祈念資料館前                  A沖縄県平和祈念資料館             平和の礎

 
                             充実した内容で説得力のある沖縄平和祈念資料館内


沖縄には平和に関わる祈念館がいくつかあるけど、そのどれもがとても熟考されて構成されており、メッセージがストレートに胸に響いてくる、レベルの高さを感じる。
   
先ず訪れたのは、戦火の真っ只中で従軍看護婦として看護活動をし続け、その殆どが若い命を失ってしまったひめゆり部隊についての資料館、『ひめゆり平和祈念資料館』だった。  写真撮影が禁止されていたので、館内の様子は写すことができなかったのだけど、心の中にしっかりといつまでも残る、充分に戦争の悲惨さと教訓を感じ取れる内容だった。   中学から高校生の年代だったひめゆり部隊と、その教員達全員の写真がディスプレイされており、その先には彼女達が家族に宛てて書いた手紙や、手櫛に手鏡、それに負傷兵の手当てをする時に使った、おもちゃのような注射器やナイフなどが展示されていた。
さらに館内には、当時、敵から隠れて負傷兵を手当てしていた“壕”が復元されていて、どれほど暗くて、狭く、非衛生的な環境で暮らしていたかも実感できるように作られていた。   一番に胸に残るのは、生き残ることができたひめゆり部隊の方々の、体験談や、現在の気持ち、そして未来につなぐ願いについて語るビデオを皆で見ている時だった。   隣に座っていた修学旅行生の男子が、泣いていたりする。
この祈念館は、今年リニューアルされたそうなのだが、戦争体験者がいなくなってしまう中で、“どうしたら戦争の無意味さを伝えられるのか?” という切実な危機感から、ヨーロッパの平和祈念館を実際に戦争体験者が巡り、参考にしてつくられたのだそうだ。  その努力は見事に報われている祈念館だと思う。

そして一度では回りきれず、2度訪れてしまったのが、糸満市摩文仁(マブニ)にある『沖縄県平和祈念資料館』だった。   ここには、琉球時代だった頃の資料から、日本により日本の文化や思想を強要された時代→太平洋戦争での米軍との悲惨な戦い→米国による27年間の
統治時代の混迷→日本に変換後の沖縄の現実 までが、やはり視聴覚全てで考えさせられる内容だった。   ここでは、当時の日本の横暴さやプロパガンダ、狂った思想が嫌と言うほど展示されていて、正直日本人としては辛くて悲しくなってしまうことも展示されている。  アジア諸国の教科書に書かれている日本の姿が、自分が学校の教科書で読んだものと全く違うことに愕然としてしまう。   でもそれを知ることが、この祈念館にくる大きな意義でもあると思った。    今一番豊かな国になり、そこはリゾート地なんだって思うだけだった緒外国を、過去自分の国とどんな関係だったのかをせめて知っておくことは、とても大切な思いやりになるのではないかと思った。
戦争は人を狂わす。  野蛮だと言われた日本軍の行いも、一握りの人物の狂気だったと信じたい。  人が戦争を始めるのだけど、戦争を止めるのも人しかいないし、出来るはず。  
最近は米国から、『テロ撲滅』の名の下に、日本が武器の製造と輸出産業を開始することを求められているけど、人を殺してしまう武器の製造にも絶対に加担してはいけないと思う。

是非、沖縄にお越しの際には、こちらの2つの祈念館にお立ち寄りくださいませ。

October27, Wednesday (cloudy)

午後2時頃から、テレビから“生存者がいるもようです!” という放送が流れた。  
新潟県を襲った地震で、土砂崩れに巻き込まれたバンの中に母子3名が生きて見つかったということだった。  地震発生後90時間以上経っており、どのテレビ局も“奇跡的だ”と中継をしていた。
『シリウス』という最新人命探査装置が、人の心臓の波動を探知し、声をかけたところ応答があったことで救助が始まったとのことだった。  そして2時40分頃、2歳の長男、優太君が救助され、誰もが奇跡的な生還に胸を詰まらせた。
  
こういう緊急時にはよくあることなのだけど、救出時での報道は、後から報告された実際の状況とはかけ離れた、相当に不正確なものだった。  先ず流れたのは“母の孝子さんも、長女の真優ちゃん(3歳)も無事が確認され、母の孝子さんと救急隊員とは言葉を交わしているとのことです”  ということだった。  そして“長男の優太君は、救急隊員によってフロントガラスが割られ、救助されたということです”という情報も実しやかに流れ、親族からは、“子供を守り続けてくれた孝子さんを褒めてあげたいと思います”と、希望と安堵感が込められたコメントが発表されたのだった。  しかしその後、岩石に囲まれた危険な斜面の中での救出であったうえに、強い余震も重なり、孝子さんと真優ちゃんの救助には2時間以上もかかってしまった。  “早く! 早く助けてあげて...” と願う気持ちも叶わず、孝子さんは布に包まれて、真優ちゃんは今だ救助できずに今日は終わってしまった。   とても悲しかった。   最初の報道に希望があっただけに、なぜ途中で死んでしまったのかと悔やまれた。   でも後からの報道で、孝子さんは即死、真優ちゃんも3列目のシートで土に埋まっている状態であったことが報告された。

2歳の優太君は、横倒しになったワゴン車の底部と岩の間にできた幅50センチ、高さ1メートルほどの空間で発見されたとのことだった。  車からは自力で出てきたのだろうか?  本当に奇跡的だったと思う。  病院に運ばれて、看護士に『ママ』と語りかけていたという幼児に胸が詰まる。  この3日間、たった一人ぼっちで、昼はお腹がすき、自由に動くことも出来ず、夜は真っ暗で寒い静寂の中、彼はきっと『ママ、ママ』とお母さんを乞い求めていたのだろうと想像がつく。  私はなぜか、その時きっと孝子さんの、生き延びることができた優太君への想いが、優太君を包んでくれていたのではないかと思う。  その想いが優太君を“救いきった”ような気がして仕方がない。

とても悲しい結果に終わってしまって本当に残念なのだけど、優太君の命の強さと奇跡を喜び、真優ちゃんの生存を信じ、孝子さんのご冥福を心からお祈りしたいと思う。

October23, Saturday (cloudy)

   
       きしもと食堂外観            大繁盛の店内           これが名物 沖縄そば!        森山良子               

美味しいものは大好きだけど、特に“行列のできる店”などと噂される店があっても、その為に出かける ということはしなかった私が、“キング・オブ・沖縄そば”と評判の店 『きしもと食堂』には是非とも行ってみたいなぁと思っていた。   沖縄そばというのは、実はそば粉を一切使用しておらず、うどんと同じく小麦粉100%の麺で作られている。  トンコツとカツオでダシをとったスープに、具として豚の煮込みと沖縄カマボコが添えられた沖縄の伝統的な食べ物のひとつだ。
なんでも戦後の沖縄には、“ソバ界の三大おばぁ”と呼ばれる、伝説的カリスマおばぁがいたのだそう。   残念ながら3人のおばぁは皆引退して、代替わりをしてしまったそうなのだが、その技と味はちゃんと引き継がれ、現在も長蛇の列が途切れないそうなのだ。

『きしもと食堂』は、沖縄本島北部に近い、本部町という港町の目立たない小道の一角にあり、実際行ってみると本当にこじんまりとした小さな敷地面積のお店だった。  小窓からは美味しそうな匂いが漏れ、数人のおばちゃんが忙しそうに働いているのが見えた。   ガラガラとドアを開け中に入ると、店いっぱい、たくさんの人で込み合っていた。  壁いっぱいに貼られた有名人の写真やサイン色紙、お店について取材された雑誌や新聞の切り抜き記事などの中に、元祖おばぁのにっこりと笑った写真が一枚小さく飾られていた。    メニューは、沖縄ソバ(大)600円と、(小)400円の二つだけ。  私は(大)を注文した。   そのお味は...?
実は以前に定食屋さんで沖縄そばを食べたことがあった私は、“これから沖縄ソバは好んで食べないかもなぁ...”なんて感想を持ってしまったのだけど、『きしもと食堂』のものを食べたらそんなマイナスなイメージが吹き飛んでしまった。   本当に美味しい。  麺の程好い固さ、濃い目のコクのあるダシ汁、きもち甘めに煮られたジューシーな豚肉と、かまぼこの仄かな風味...。   恥ずかしながら一滴残らずいただいてしまった。
店を出ると午後2:30という時間にも関わらず、長蛇の列が作られていた。

その後、真っ直ぐ北に車を走らせ、ずっと楽しみにしていた森山良子の野外コンサートに行ってきた。  
コンサートシーズンなのか、沖縄にもミスチル、さだまさし、槇原敬之など、コンサートが相次いで行われているけど、森山良子のコンサートは、JALが主催した環境チャリティコンサートで、『沖縄の海・サンゴと自然を守ろう』を合言葉に海辺にステージが作られ、観客も浜辺にそれぞれゴザなどを敷いて座って聴く形だった。
彼女の声はどこまでも伸びて透明で、本当に素晴らしかった。  大空の下、すぐ後ろには美しい海が広がり、潮風が彼女のドレスをなびかせ、素敵な風景だった。   彼女が『さとうきび畑』を歌った時には、沖縄の観客の人達が身じろぎもせず聞き入り、それを後ろから見ていたらとてもせつなくなり、歌詞の光景も頭に広がって涙が止まらなかった。   “ザワワ”はやっぱり凄い唄だ。
そして彼女の歌、言葉、身のこなしに機転の効いた冗談、すべてがとてもエレガントに感じた。  
とても素敵なコンサートだった。

October21, Thursday (sunny)

 
      残波岬 灯台        灯台の中 階段      灯台からの眺め           bus stand            台風時には動く岩
              

夏も終わりにさしかかり、沖縄の空は濃い青から水色の秋の空に変わってきていたこの頃だけど、今日は久しぶりに夏の空色をした良いお天気だった。   一昨日の台風ではとても大きな被害が日本各地で出てしまったけど、今日の海は、あの台風が嘘だったかのように穏かで青かった。  
 
今日は沖縄本島の中部にある読谷村の北端に位置する、残波岬(ザンパミサキ)を訪れた。   そこには日本で2番目に高い真っ白な灯台があり、内側にある何十段もの階段を登っていくと、その先には360度展望できるテラスがあった。  そこからは、波が打ち寄せては返す、真っ直ぐに延びた岸壁や、太陽に銀色に照らされた海が臨め、素晴らしい景勝だった。
戦時中は、米軍がこの岬を目印に攻撃をしかけてきたという悲しい歴史もあるのだけど、夕刻には壮大な夕陽が眺められ、灯台の周りの岩では釣り人がのんびりと竿を下ろし、物陰にはサトウキビを売る人が佇んでいるような、のどかで素敵な場所だった。
地上28mの白い灯台は、昭和48年(沖縄本土日本返還2年後)に残波岬に作られて以来、夜の海を光で照らし続けている。

灯台のすぐ横の崖道には、大きな岩石がドシンと佇んでおり、横にあった看板に 『台風(ウーカジ)の猛威--  1990年10月6日午後8時40分、台風21号のエネルギーは、大波となって残波岬一帯をのみこんだ。   その時、94t、85t、50tの大岩が動かされた。  自然をあなどるな!!』  と書かれていた。    “残波岬では、台風の時には大岩がゴロゴロと動き回っているんだって” という話を知人に聞いて、その光景を想像し笑っていたのだけど、そういうことだったのかぁ、ホント自然を侮ってはいけないなぁと実感した。

残波岬、とても美しい場所でした。

October19, Tuesday (stormy)


           typhoon                  翌日、車倒れていました
              

またまた台風上陸。  沖縄に来てから3度目になるけど、今夜の雨はこれまでに比べても勢いが違う。   道路脇の木が倒れ、信号が効かなくなり、暴風雨に車さえ転がっていってしまいそうだ。   大型店も仕事も午後から切り上げているところが多いよう...。    
日本本島にも再度直撃するようなので、くれぐれもビーケアフォー!

October13, Wednesday (sunny)


                TACOライス


こちらでよく見かけて、『へぇ〜、どうして気がつかなかったのだろう?』と、目から鱗が落ちる思いがした食べ物に、“タコライス”があった。   文字どうり、ご飯の上にメキシコ料理のタコスの材料であるトマト、レタス、ひき肉、チーズが乗せられ、更に上からスパイシーなソースをかけて食べるものなのだけど、これが結構おいしい。   トマトとレタスがさっぱりしていて、暑い気候に合っているからこんなにも人気なのだろうか?   沖縄で“タコライス”は、スーパーやコンビニのお弁当コーナーに堂々と並んでいて、食堂やフードコートのメニューにも入っている。    レトルトも発売されているし、学校給食にも登場するのだそうだ。   そして『吉野家』や『ほっかほっか亭』のメイン・メニューにまでなっているのだから、もはや沖縄の郷土料理とも言えそうなポジションだ。   

沖縄で“タコライス”が生まれてから既に7〜8年の月日が経っているようだけど、日本列島では流行らなかったということなのかなぁ?  ...残念。

October12, Tuesday (sunny)


                                      中村家 (約280年前の代表的な沖縄の農家家屋


戦禍も免れて280年前の民家が現存している、『中村家住宅』を訪れた。  ここは国指定重要文化財に指定されていて、当時の沖縄の住居建築の特色をすべて備えているのだそうだ。    
建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを受けているとのことで、なるほど一歩敷居をまたいでみると、純和風な空間が広がっていた。
木の落ち着いた色合い、障子からもれる光、美しい文字が書かれた掛け軸、丹精こめて作られた雛人形、風通しのいい畳の部屋、風鈴の音色、庭に広がる緑の植物と真紅の花。   少し控えめに薄紫の小花も咲いていた。    
改めて和風家屋の魅力をしみじみと感じる。    一つの客間に掛けられた額縁には、達筆な文字で、『人は住いをつくり、住いはそこに住む人の心をつくる』と書かれていた。    ここのお宅に一晩だけでもいいから、お布団を敷かせていただいて風鈴の音を聞きながら休ませてもらえたらなぁ...と密かに願ってしまった。

October10, Sunday (sunny)

 
   世界一大きな綱         電柱に登る少年            綱引き見物の人垣                綱を切って持ち帰る人々


  浴衣姿の娘達         世良公則 with 野村義男                 花火


今日も昨日に引き続き、那覇祭りが行われた。   今日のメイン・イベントは、ギネス認定の世界一大きな綱で行われる『大綱引き大会』だ。   午後3:30から大通りは歩行者天国になり、あっという間に人で埋まってしまった。  道路の中央に
長さ200m、重さ40tの縄が置かれ、その周りには老若男女、様々な国籍の人々が囲んで勝負を待ち望んでいた。
東西対抗、一回勝負の綱引きは、見ているだけで楽しかった。  今日ばかりは沖縄の人達と米軍兵が交じり合い、互いに綱を全力で引き合い、皆本当に楽しそうだった。   東軍が勝利した時には拍手が沸きあがり、万歳をして喜び合った。  
綱引き大会が終了すると人々は、各自ナイフで綱を切り始め、家に持って帰っていた。   きっとご利益があるのだろう。   私も一本縄を持って帰った。   

ここ沖縄でも、若い女性を中心に、お祭りの時には皆 浴衣を着ている。  こんなことなら、私も若くはないけど便乗して、卸したての浴衣を持って来ればよかったなぁ。    やっぱり日本女性の浴衣って素敵だなぁと思う。
奥武山公園では午後6:30から、世良公則の野外コンサートが行われた。   またまた人の嵐だったけど、沖縄では混雑時にありがちな、怒鳴り声とか“押し合い圧し合い”というのが無いのが素晴らしいところだ。
世良正則は特に好きという訳ではなかったけど、かっこよかった。   マイクの扱いが更に巧みになっており、何度も回転させて熱唱してくれた。   なんと“ヨッちゃん”こと野村義男もバックでギターを弾いていて、イカシテタ。   彼って、ともすれば三枚目で終わってしまいかねなかったアイドル路線を『技』で脱出し、今となっては浜崎あゆみ他、多数シンガーのバックを掛け持っていて、ある意味かっこいいミュージシャンになったなぁと思う。 
世良公則の歌は、『燃えろいい女』でもなく、『宿無し』でも『引き金』でもなく、『あんたのバラード』が今日は一番ジーンときた。
 

October9, Saturday (cloudy)

 
 
       サルサ                      ハワイアン                   誘われて踊るおばぁさん             見物者

各地で秋の祭りが行われている中で、沖縄でも今日は各所でお祭りが行われた。
特に規模が大きかったのは『那覇祭り』で、夕方からのパレードにはたくさんの人で賑わっていた。
パレードは幼児から老人までが、琉球舞踊、サルサ・ダンス、ハワイアン・ダンス、エイサー太鼓、獅子舞など、レパートリーに富んだ内容で楽しかった。   獅子舞に襲われて大人にしがみついて泣く子供や、マイペースな踊りで笑いを独占する幼児などはとても可愛かった。   そして路上に座って見物していたおばぁさんが、ダンサーに誘われて手を引かれると、すぐに一緒になって沖縄踊りを踊りだすところは、粋でかっこいいなぁと感心して見ていた。

エイサーの胸に響く太鼓の音と、花笠と紅型衣装に身を包んで踊り鳴らす『四つ竹』の“カチッ、カチッ”と響く音に、沖縄の風情をおもいっきり感じることができた夜だった。

October5, Tuesday (sunny)


 

沖縄本島北部の名護市にある、瀬底島という小さな島に行ってみた。
沖縄本島で最も美しいと言われているだけあって、海は本当に綺麗なエメラルド・グリーンをしていた。
途中には、さとうきび畑が広がり、サワサワと葉が揺らめいていた。

運転中にラジオをつけると、米軍基地内の放送も聞くことができるのだけど、音楽の選曲がとてもよくて嬉しい。
DJの言っている英語も、よーく聞いていると、“PTAのミーティングがどこどこのカフェで金曜日の2時からあります” とか、“Maryland Universityの願書受付は○月○日に締め切りです” とかいう基地内の連絡事項や、“異国の地で初めての出産はとっても不安よね。 でも大丈夫、Warren Streetの○○産婦人科が経験豊かなスタッフでお待ちしています” とか、“安く海外旅行に行きたかったら、○○travelへ” などのビジネス・コマーシャルが流れていて興味深い。    

今日は久しぶりにライカでモノクロ写真も撮ったので、なんだか気分は最高だった。

October4, Monday (sunny)

 
平和の丘から望む平和祈念堂  戦争体験を高校生に語る宮城さん  慰霊碑に花を捧げる男子高校生

 
    平和の礎 (沖縄戦で命を落とした20万人の名が刻まれている)        摩文仁(マブニ)の丘と海


沖縄南端にある糸満市に、『沖縄平和祈念公園』がある。  ここは沖縄戦の時に、敵軍に追いやられた兵士や看護婦、民間人たちが、最後に司令壕を作り、悲惨な終結を迎えた『摩文仁(マブニ)の丘』がある場所だった。   
公園内には広い敷地に、沖縄戦で命を失った全ての人々の名前が刻まれた石碑が列を連ね、霊場として各都道府県毎に大きな慰霊碑が建てられていた。   
かって多くの人が身を投げ、米軍の最後の攻撃を受けた場所からは、真青な太平洋が望め、緑の芝生や赤いデイゴの花が眩しかった。   空にはたくさんのトンボやツバメが忙しく舞い、先人たちの遺志の元に成り立っている『平和』をそこに感じることができた。    おばあさんが売っている献花とお線香を買い、慰霊碑に祈りを捧げた。   帰る途中で、やはり献花を腕に抱えて少し照れたようにやってくる男子高校生2人とすれ違った。   修学旅行生がたくさんいる中で、こうやってちゃんとお花を買って捧げようとする学生がいることが、なんだかとても嬉しかった。

そこから少し歩くと、7つの大海と合掌の形を表して作られた白い『沖縄平和祈念堂』があり、中に入るととても大きくて慈悲に満ちたお顔をした仏像が置かれていた。  そしてその前には修学旅行生が60人ほど座っており、壇上では、かって“ひめゆり部隊”の一員だった宮城喜久子さんが、熱心に戦争体験を語っていた。
彼女はとても冷静でありながら、切実に当時の様子や体験を話してくれたのだけど、その内容の凄さと深さに、私は動けなくなってしまった。     負傷した人でいっぱいのほら穴で、夜になると体に湧いたウジが肉体を蝕む音がするなんて想像ができるだろうか。   麻酔も注射もナイフもないのに、ノコギリで身体を切断するしかなかった医療があるだろうか、お腹が空いた時に、草や焼け野原に転がるサトウキビをかじるしかないひもじさが、目の前で砲弾に倒れ身体がバラバラになって死んでいく友人の姿を見て暮らす生活が、私にはもう想像すらもできなくなっていた。   
そして本当に不思議なのだけど、入った時にはほほ笑んでいるように見えた仏様が、この話の最中にはひどく泣いているように見えた。

戦争体験者というのは、あまりに悲惨な過去を忘れる為、口を閉ざしてしまう人が多い。   彼女も例外ではなく、40年間“あの頃”の出来事は口に出せなかったという。   でも、目の前で命を落としていったたくさんの友人や知人のことを思い出すと、自分がするべきことは後世に戦争の悲惨さを伝え、平和に繋げていくことではないのか、そうすることによって故人の死も報われるのではないかという一心で、『伝える』ことを始めたのだった。

宮城さんは、『身体の病気と言うのは時間が経てば経つほど楽になりますよね。  でも私の気持ちというのは、時間が経過して世の中が平和になればなるほど辛くなるんです。   あの頃、助けてあげられずに亡くなっていった友人のことが、“おかあさん!” と叫びながら砲撃にあった少年兵のことが、辛く思い出されるんです。   人を殺し合ったって平和は勝ち取れません。  平和をつくれるのは“対話”だけです。   “対話”を重ねていくことしかないんです。   大人が平和への道を間違えそうになったら、高校生の皆さんが正してくださいね。   今日は私の話を最後まで聞いてくださって本当にありがとうございました。』  と深々とお辞儀をして壇上を去った。   彼女はそうやってもう何十年も、思い出すのも辛い話を涙を浮かべながら公演しているのだ。     そしてその勇姿は確実に若者の心に入り込んでいると思う。   その証拠に、ネットで『平和祈念堂 宮城さん』で検索すると、たくさんの高校生の感想を見つけることができる。

その後すぐに、高校生代表からの立派なお礼の言葉が述べられ、千羽鶴と黙祷が捧げられていた。
公演が終わり、付き添いの先生方が号令をかけた。   『はい、ではこれから夕食になります。  沖縄郷土料理を希望の人は、一号車のバスに乗ってください。  バイキング希望者は二号車のバス。  ステーキ希望の人は三号車ねー!』    

本当に平和をありがとう、ってなんだかしみじみ思ってしまった。

October2, Saturday (sunny)


       Cafe 沖縄式             居心地のいい店内             オリジナルやきものも販売        ブクブク・コーヒー
     
沖縄には素敵なカフェが多い。  カフェでコーヒーを飲むのが大好きな私にとっては、とても嬉しい発見だった。
今日発見したカフェは、昨日訪れた『福州園』のすぐ近くにある、
『Cafe 沖縄式』というところで、広々した店内はテーブルもイスもショーケースも全て“木”で作られていて、心底落ち着ける空間だった。   そこでは、美味しいコーヒーだけでなく、琉球ガラス細工やオリジナルのやきもの、そしてこのお店オリジナルの詩集なども売られていた。   その他、壁には素敵な写真がたくさん飾られており、とても気に入ってしまった。

私が注文したのは、沖縄名物のひとつと言われている、『ブクブク・コーヒー』だった。  “ブクブク”とは文字通り、“泡々”な状態のコーヒーのことだったのだけど、味もスパイシーな風味があって、シナモンティーとコーヒーのブレンドのような味だと思った。   でも後からお店の人に聞いたら、シナモンは入っておらず、ウコン茶とゴーヤーがブレンドされているとのことだった。   コーヒーに栄養価を求めるなんて、スゴイ発想かも。

のれんに書かれていた、オリジナルの詩が印象的だった。    

[沖縄といふところ]    
一見、何もないようでいて
   中に入ると本当に何もなくて   
それでいてなぜかしら   心満たされるというのが
この島の不思議なところで

October1, Friday (sunny)

 
  

     
今日は中国の建築と庭園が再現された『福州園』に行ってみた。
ここは、琉球の時代から縁の深かった、中国の福建省福州市と那覇市とが、交流のシンボルとして1992年に建築したもので、資材から技術まで全てにおいて福州市から取り入れたのだそうだ。
そしてこの園の周辺となる那覇市久米地区というのは、かって中国から帰化した人々が多く住んでいた場所でもあったらしい。

入場料無料でありながら、一歩門に足を踏み入れると、そこにはとても美しい中国風の建築物と自然が広がっており、ちょうど見物し終わって帰って来たばかりの男性が受付の人に、『素晴らしいね。 こんなに素晴らしいのに人が少ないのは不思議だね。 もったいないね』 と声をかけていた。   受付の人も、『そうですねぇ...。  街の中心にあるんですけどねぇ...』 と答えていた。  
結局私も、1周して園を出る時には、この男性と同じ感想を抱いていた。  『福州園』では中国の胡弓の音楽が流れ、ジャスミンの花がほのかに香り、滝の音が暑さを癒してくれた。   庭園は合理的かつ芸術的に設計されていて、どこを歩いても風情のある建築物や、水や木々などの自然の恵みを愉しみながらが遊歩できるようになっていて、 地面にまでも、美しい彫刻が施されていた。

中国と那覇市との友好の印として、こんなに美しい場所があるということは、とても貴重で素敵なことだと思う。